BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
シュミッツ・チボリ(Schmidts Tivoli) 1864年 (© lizenzfrei)
1900年頃のフローラのポスター、下にクリスタルパレスも描かれている (© lizenzfrei)
1900年頃のフローラ (© vermutlich lizenzfrei)
今日のフローラ
フローラの真向かい。ピアッツアの光景
フローラの公園 右奥に防空壕が見える
ファサードを横から見ると・・・
学生街っぽいシュルターブラット
022「オートノミズムの最後の籠城・ローテ・フローラ シュルターブラット」
最近では、日本からの観光客にも、その名前が知られるようになった「シャンツェン地区」に、シュルターブラット(肩甲骨)という名前の通りがある。この通り名がついたのは、18世紀、ここに、クジラの肩甲骨を看板とした料理屋があったからだそうだ。その料理屋が、クジラ料理を供していたかどうかはわからないが、ありえない話ではない。当時の北ドイツでは、クジラ漁がさかんだった。北海の島々には、クジラの顎骨を門柱に使った民家も残っている。
シュルターブラットが正式な通り名となったのは、19世紀にはいってから。特に、Sバーンの高架からズザンネシュトラーセの間は、舗道の幅が広く、ちょっとした広場のようになっている。イタリアの広場のように、レストランやカフェが無数のテーブルを出しているので、最近ではピアッツァ(Piazza)とも呼ばれているそうだ。
シュルターブラットには、様々な歴史が刻まれていて、話題は尽きないのだが、今回はピアッツァの向かいにファサードが残る旧劇場「ローテ・フローラ」(赤い花、の意)について・・・。
今日、「ローテ・フローラ」の、悪臭漂う、閉ざされた正面玄関には、ホームレスや時代遅れのパンク風の男女がたむろしている。そこには彼らの生の暮らしがあるので、じゃまをせずに、そっと通り過ぎたくなる一角だ。彼らも、この建物を占拠する活動家なのだろうか。おそらく、占拠者たちとは仲間なのだろう。かたや、その真正面の「ピアッツァ」では、戸外のテーブルで、ハンブルク市民が楽しそうに食事をしている。ここは、ハンブルクの光と影の両方を一度に見せつけられる場所だ。 また、この通りは、かつて、アルトナ市とハンブルク市の境界だった。「ローテ・フローラ」側はかつてのアルトナ市に、「ピアッツァ」側はハンブルク市に当たる。
「ローテ・フローラ」はその昔、劇場だった。その前身は1835年に開業した夏の劇場(戸外)で、簡素な木製の舞台があるだけだったという。1855年、娯楽業者のH.F.P.シュミットが、この場所を買い取り、木組みの娯楽施設を建て、新しい舞台や庭園を整え、1859年に「シュミッツ・チボリ(Schmidt‘s Tivoli)」という遊園地がオープンした。その後は、所有者が変わり、1880年代に施設は解体された。
1889年、実業家ムッツェンベッヒャー(Theodor Mutzenbecher)とレルヒ(Lerch)が、チボリ跡に「コンサートハウス・フローラ」をオープンした。コンサートホールやウイーン風カフェ、ヴィンターガルテン(冬の庭、の意。ガラス張りの温室のような庭園)などが整った、総合娯楽施設だったという。フローラはどんどん拡張され、翌年には「クリスタルパレス」と呼ばれた、鉄骨構造でガラス張りのユーゲントシュティール様式のホールも完成した。
1895年、この施設は売りに出され、ハンブルクの銀行が買い取り、増改築が繰り返された。20世紀初頭までは、市民に人気の劇場、ヴァリエテとして機能していたそうだ。
第一次大戦後、劇場は閉鎖され、1921年からはタバコ工場として使用された。工場が倒産すると、今度はベルリッツ語学学校の校舎になった。1926年には、映画館がオープンしたが、まもなく倒産。その後は、レスリング会場にもなったという。
1936年から、再び改築が行われ、最上階がアパートになった。そして第二次大戦中の1941年には、庭園に700人を収容できる防空壕ができた。ハンブルクの街は、空襲でその7割が焼けたと言われるが、この劇場はガレージホールを除き、戦渦を免れた。そのため、戦後まもなく、劇場として復活することができたのである。
1953年から1964年までは、800人を収容する映画館だった。この時の映画館のオーナーが、前世紀末の名称を復活させ「フローラ(FLORA)」とネオンサインを掲げたそうだ。映画館閉鎖後は、ハンブルク市の所有となり、しばらくの間、ディスカウント電化製品店に賃貸されていた。1979年から1980年にかけて、劇場、映画館オープンのアイディアが、いくつか出たものの、いずれも資金不足で実現するに至らなかった。
1987年、ミュージカル・プロデューサーのフリードリヒ・クンツがこの建物に目をつけ、ハンブルク市にミュージカル専用劇場への改築を申し出た。彼は1989年に、この場所で「オペラ座の怪人」の興行をスタートさせたかったのである。しかし、87年末にテナントの電化製品店が引き払ってしまうと、ミュージカル劇場開館に反対する人たちの抵抗がはじまり、周辺住民の一部、オートノミスト(ドイツ語でアウトノーメ)のグループが抗議活動を活発化させた。彼らは、周辺の家賃や物価の高騰、街並の変化を恐れたのである。
しかし、翌1988年、旧フローラ劇場の大部分と、文化財に指定されていたクリスタルパレスは、抵抗もむなしく、壊されてしまい、残されたのは劇場入口のファサードだけとなった。そのファサードの後ろに、新築のミュージカル劇場が建設されるはずだったのだが、その後まもなく、活動家らによる占拠が始まった。その過激な抵抗により、投資家はついに、劇場建設を諦めてしまう。
1989年夏、ハンブルク市はこのファサード部分を、自主運営団体に、とりあえず6週間の期限付きで提供し、地域センターとして活用してもらうという可能性を探ったが、その団体が地域センターとしてオープンするや、まもなく占拠宣言が行われ、文化的・政治的ミーティングポイントとなってしまった。そして、この時から、占拠者らはここを、左翼オートノミズムの色を冠して「ローテ・フローラ」と呼ぶようになったのである。
一方、ミュージカル劇場のほうは、1990年にホルステンシュトラーセ駅の前に、「ノイエ・フローラ」(新しい花、の意)という名前でオープンした。
その後もローテ・フローラは、紆余曲折を経て現在に至る。現在までの動きを簡単にまとめてみた。(読み飛ばしてくださってもいいですよ!)
1991年 占拠者らがファサード裏に自主的に公園を整備。しかし市はここに住宅建設を計画。
1992年 ハンブルク市が施設の共同使用契約を提案。占拠者らは拒否。
1995年 占拠者らが文化プロジェクト、およびオートノミスト団体の政治的集会所として使用を開始。
2000年 占拠者ら、ハンブルク市と交渉。契約の提案。
2001年 ハンブルク市が施設を不動産屋クレッチマーに売却。「ローテ・フローラ」の維持には同意。
2004年 占拠15周年パーティ。
2007年 ハイリゲンダム・サミットの警備強化期間中、テロ活動との関連性を疑われ、警察が立入り捜査、物品押収が行われた。立入り捜査反対のデモ集会に2000人が結集。
2008年 再度警察の立入り捜査。犯罪者がかくまわれているとの疑い。13人を逮捕。
2009年 占拠20周年記念。オーナーのクレッチマーが将来的に占拠された建物の撤去考えていると公言。
2010年 ハンブルク市が再度買い取りを検討。クレッチマーは拒否。
「ローテ・フローラ」は占拠されてから常に、市民活動、 政治活動の場、 ナショナリズムに抵抗する人たちや、公共の場のプライベート化に反対する人たちの拠点だった。彼らはこれまでも、そして今も、パンク、レゲエ、ハウス、テクノ系コンサートを実施して、活動資金を得ている。
昨年の秋、久しぶりに「ローテ・フローラ」のファサード脇を通って、公園に入ってみた。ファサード裏のスケートボート場は、少年たちでにぎわっており、奥の防空壕の壁面では、クライミング・クラブのメンバーが自主練習をしている。ローテ・フローラのファサードとその裏の公園には、今なお、ドイツの1980年代の空気が漂っていて、なんだかとても懐かしい気持ちになった。私がやってきた時代のハンブルクには、こういった雰囲気の場所が一杯あった。
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最近では、日本からの観光客にも、その名前が知られるようになった「シャンツェン地区」に、シュルターブラット(肩甲骨)という名前の通りがある。この通り名がついたのは、18世紀、ここに、クジラの肩甲骨を看板とした料理屋があったからだそうだ。その料理屋が、クジラ料理を供していたかどうかはわからないが、ありえない話ではない。当時の北ドイツでは、クジラ漁がさかんだった。北海の島々には、クジラの顎骨を門柱に使った民家も残っている。
シュルターブラットが正式な通り名となったのは、19世紀にはいってから。特に、Sバーンの高架からズザンネシュトラーセの間は、舗道の幅が広く、ちょっとした広場のようになっている。イタリアの広場のように、レストランやカフェが無数のテーブルを出しているので、最近ではピアッツァ(Piazza)とも呼ばれているそうだ。
シュルターブラットには、様々な歴史が刻まれていて、話題は尽きないのだが、今回はピアッツァの向かいにファサードが残る旧劇場「ローテ・フローラ」(赤い花、の意)について・・・。
今日、「ローテ・フローラ」の、悪臭漂う、閉ざされた正面玄関には、ホームレスや時代遅れのパンク風の男女がたむろしている。そこには彼らの生の暮らしがあるので、じゃまをせずに、そっと通り過ぎたくなる一角だ。彼らも、この建物を占拠する活動家なのだろうか。おそらく、占拠者たちとは仲間なのだろう。かたや、その真正面の「ピアッツァ」では、戸外のテーブルで、ハンブルク市民が楽しそうに食事をしている。ここは、ハンブルクの光と影の両方を一度に見せつけられる場所だ。 また、この通りは、かつて、アルトナ市とハンブルク市の境界だった。「ローテ・フローラ」側はかつてのアルトナ市に、「ピアッツァ」側はハンブルク市に当たる。
「ローテ・フローラ」はその昔、劇場だった。その前身は1835年に開業した夏の劇場(戸外)で、簡素な木製の舞台があるだけだったという。1855年、娯楽業者のH.F.P.シュミットが、この場所を買い取り、木組みの娯楽施設を建て、新しい舞台や庭園を整え、1859年に「シュミッツ・チボリ(Schmidt‘s Tivoli)」という遊園地がオープンした。その後は、所有者が変わり、1880年代に施設は解体された。
1889年、実業家ムッツェンベッヒャー(Theodor Mutzenbecher)とレルヒ(Lerch)が、チボリ跡に「コンサートハウス・フローラ」をオープンした。コンサートホールやウイーン風カフェ、ヴィンターガルテン(冬の庭、の意。ガラス張りの温室のような庭園)などが整った、総合娯楽施設だったという。フローラはどんどん拡張され、翌年には「クリスタルパレス」と呼ばれた、鉄骨構造でガラス張りのユーゲントシュティール様式のホールも完成した。
1895年、この施設は売りに出され、ハンブルクの銀行が買い取り、増改築が繰り返された。20世紀初頭までは、市民に人気の劇場、ヴァリエテとして機能していたそうだ。
第一次大戦後、劇場は閉鎖され、1921年からはタバコ工場として使用された。工場が倒産すると、今度はベルリッツ語学学校の校舎になった。1926年には、映画館がオープンしたが、まもなく倒産。その後は、レスリング会場にもなったという。
1936年から、再び改築が行われ、最上階がアパートになった。そして第二次大戦中の1941年には、庭園に700人を収容できる防空壕ができた。ハンブルクの街は、空襲でその7割が焼けたと言われるが、この劇場はガレージホールを除き、戦渦を免れた。そのため、戦後まもなく、劇場として復活することができたのである。
1953年から1964年までは、800人を収容する映画館だった。この時の映画館のオーナーが、前世紀末の名称を復活させ「フローラ(FLORA)」とネオンサインを掲げたそうだ。映画館閉鎖後は、ハンブルク市の所有となり、しばらくの間、ディスカウント電化製品店に賃貸されていた。1979年から1980年にかけて、劇場、映画館オープンのアイディアが、いくつか出たものの、いずれも資金不足で実現するに至らなかった。
1987年、ミュージカル・プロデューサーのフリードリヒ・クンツがこの建物に目をつけ、ハンブルク市にミュージカル専用劇場への改築を申し出た。彼は1989年に、この場所で「オペラ座の怪人」の興行をスタートさせたかったのである。しかし、87年末にテナントの電化製品店が引き払ってしまうと、ミュージカル劇場開館に反対する人たちの抵抗がはじまり、周辺住民の一部、オートノミスト(ドイツ語でアウトノーメ)のグループが抗議活動を活発化させた。彼らは、周辺の家賃や物価の高騰、街並の変化を恐れたのである。
しかし、翌1988年、旧フローラ劇場の大部分と、文化財に指定されていたクリスタルパレスは、抵抗もむなしく、壊されてしまい、残されたのは劇場入口のファサードだけとなった。そのファサードの後ろに、新築のミュージカル劇場が建設されるはずだったのだが、その後まもなく、活動家らによる占拠が始まった。その過激な抵抗により、投資家はついに、劇場建設を諦めてしまう。
1989年夏、ハンブルク市はこのファサード部分を、自主運営団体に、とりあえず6週間の期限付きで提供し、地域センターとして活用してもらうという可能性を探ったが、その団体が地域センターとしてオープンするや、まもなく占拠宣言が行われ、文化的・政治的ミーティングポイントとなってしまった。そして、この時から、占拠者らはここを、左翼オートノミズムの色を冠して「ローテ・フローラ」と呼ぶようになったのである。
一方、ミュージカル劇場のほうは、1990年にホルステンシュトラーセ駅の前に、「ノイエ・フローラ」(新しい花、の意)という名前でオープンした。
その後もローテ・フローラは、紆余曲折を経て現在に至る。現在までの動きを簡単にまとめてみた。(読み飛ばしてくださってもいいですよ!)
1991年 占拠者らがファサード裏に自主的に公園を整備。しかし市はここに住宅建設を計画。
1992年 ハンブルク市が施設の共同使用契約を提案。占拠者らは拒否。
1995年 占拠者らが文化プロジェクト、およびオートノミスト団体の政治的集会所として使用を開始。
2000年 占拠者ら、ハンブルク市と交渉。契約の提案。
2001年 ハンブルク市が施設を不動産屋クレッチマーに売却。「ローテ・フローラ」の維持には同意。
2004年 占拠15周年パーティ。
2007年 ハイリゲンダム・サミットの警備強化期間中、テロ活動との関連性を疑われ、警察が立入り捜査、物品押収が行われた。立入り捜査反対のデモ集会に2000人が結集。
2008年 再度警察の立入り捜査。犯罪者がかくまわれているとの疑い。13人を逮捕。
2009年 占拠20周年記念。オーナーのクレッチマーが将来的に占拠された建物の撤去考えていると公言。
2010年 ハンブルク市が再度買い取りを検討。クレッチマーは拒否。
「ローテ・フローラ」は占拠されてから常に、市民活動、 政治活動の場、 ナショナリズムに抵抗する人たちや、公共の場のプライベート化に反対する人たちの拠点だった。彼らはこれまでも、そして今も、パンク、レゲエ、ハウス、テクノ系コンサートを実施して、活動資金を得ている。
昨年の秋、久しぶりに「ローテ・フローラ」のファサード脇を通って、公園に入ってみた。ファサード裏のスケートボート場は、少年たちでにぎわっており、奥の防空壕の壁面では、クライミング・クラブのメンバーが自主練習をしている。ローテ・フローラのファサードとその裏の公園には、今なお、ドイツの1980年代の空気が漂っていて、なんだかとても懐かしい気持ちになった。私がやってきた時代のハンブルクには、こういった雰囲気の場所が一杯あった。
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