TRANS・BRASIL ブラジル往復
 
 
016「地球を4分の3周するという暮らし」

ハンブルクに住みながら、そこから正反対の方向にある日本とブラジルの両方を往復するようになったのは、2003年のこと。そんな暮らしがはじまって、もう、9年以上が経過した。

日本とドイツ、2つの文化を行き来するだけでも結構大変、と思いながら暮らしてきたが、ブラジルが加わって、ますますわけがわからなくなってきている。ドイツ北方文化で固まっていた思考に、ブラジルのラテン系文化が侵入しはじめ、 7年前から新たに学び始めたポルトガル語が、ドイツ語を駆逐しようとしている(困った!)。私のドイツ人化にゆるやかなブレーキがかかり、日常生活に混乱が生じ、生きることが、ますます複雑で面白くなっている。なんといっても退屈している暇がない。

とはいえ、2005年の秋までは、ポルトガル語は一切喋れなかった。それまでは、習おうかどうしようか、ちょっと迷っていたのである。しかし、2005年秋に再婚したのを契機に、一念発起して、夫の母国語を学ぶ決意をした。

中年になってから、新たに外国語を学びはじめるのは、若い時に学びはじめるよりも難しいだろう。しかし、久しぶりに語学学校に通うのは楽しかった。高校時代は、ちょっぴり登校拒否状態だったし(遅刻常習犯)、大学に入ってからは、勉強以外のことに気が散っていたが、年齢と経験を重ねた今、先生の言うことが、わりとすんなり頭に入ってくる。そうして、本当に久しぶりに、学校へ通うこと、語学を勉強することの楽しさを味わった。約5年にわたって、毎週1回、ブラジル人のおばあちゃん先生に一通りのことを教えてもらった。そうして、易しい本を読んだり、ボサノヴァやMPB、ブラジリアンロックを鼻歌で歌ったり、ある程度の文章を書いたりできるようになった。

おばあちゃん先生の教え方は見事だった。私は、彼女のお蔭で、ポルトガル語がますます好きになったと思う。生徒はドイツ人女性2人と私の女3人で、授業が始まると、1人1人順番に、1週間にやったことを、ポルトガル語で報告させられた。1人当たり15分は喋らされる。どんなに詰まっても、必ず最後まで話をするという暗黙のルールだ。単語がわからないと、彼女がそっと助け舟を出してくれる。文法を間違うと、ものすごいスピードで、ポイントを黒板に書いてくれ、それが復習になる。私たち3人が一通り喋ったあとは、毎回新しい文法や言い回しを教えてもらった。最後の年には、一緒に本を読んだ。ドイツ人女性2人が、よく欠席するので、1人で授業を受けることも多かった。1人の時は、30分くらい近況報告をすることになった。

1990年代の始め頃、ドイツ語がある程度喋れるようになったので、ドイツ語とは全く違う、ラテン系の言語を習ってみたくて、1ヶ月間、フランス語の集中講座に通ったことがある。ただ、その後が続かなかった。それ以後も、心の片隅では、ラテン系の言語をどれかひとつ喋れるようになりたいという、ぼんやりとした夢があった。でも、フランス語か、イタリア語か、スペイン語か、あるいはポルトガル語かを、これだ、と決めることができなかった。どの言語も、特に自分と深い関わりがあるわけでもなく、どの国も、たまに旅をするくらいでしかない。それで、4つのうちの1つを選択することができなかった。でも、2003年にブラジルと出会った時に、将来、どの言語を学ぶかは決まっていたのだ。ああ、決まってよかった。これでもう、一生迷い続けなくてすむ。

ところで、私の学んでいるブラジル・ポルトガル語は、ポルトガルのポルトガル語とはだいぶ違う。一部の単語や文法だけでなく、発音や、口の動かし方も異なる。ブラジルではコミュニケーションができるのに、ポルトガルではなかなか話が通じない。特に相手の話が聞き取れない。それは、オーストリアの田舎で、同じドイツ語を喋っているはずなのに、オーストリア人となかなか話が通じないような感覚だ。主人もポルトガルでは、ブラジル・ポルトガル語がなかなか通じず、「ポルトガル人は、まるで古代ポルトガル語を話しているみたいだ」と言う。

しかし、旅でリスボンやポルトに数日滞在していると、毎日利用するカフェやバー、レストランに、大抵1人くらいはブラジル人がいることがわかる。ポルトには、スタッフ全員ブラジル人、という日本食レストランもあった。板前さんは、サンパウロの日本料理屋で修業したという。最近では、ヨーロッパのどこでも、ブラジル人と出会ってポルトガル語で雑談をしていると、何だか、故郷に帰って来たかように、ほっとするようになってしまった。これからは、ポルトガル人の話すポルトガル語にも、すこしずつ慣れたい、と思っている。

 
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