WINE・WANDERING ワイン彷徨通信
 
 
031「月の港、ボルドーへ」

ボルドーはとてつもなく大きな「ワイン産地」だ。ボルドーの中にドイツの13生産地域のぶどう畑がすっぽりはいってしまう。あまりに広大で、ボルドーの全貌はとらえにくい。オーストリアのワインアカデミーに在学中だった2011年、現場を見ずに勉強することに限界を感じ、現地に向かった。

到着日は、シャルトロン地区のワイン&ネゴシアン博物館(Musée du vin et du negoce)へ足を運んだ。1720年にアイルランドの商人が建てた商館は、典型的なワイン商向けの建築で、倉庫と事務所、商人の自宅を兼ねていた。

ガロンヌ川は、ボルドーの中心で大きく蛇行している。この蛇行は古くから三日月に見立てられ、ボルドー港は「月の港」と呼ばれていた。ここから、英国をはじめ、世界各地にフランスのワインが運ばれた。

ボルドーで初めてぶどう栽培が始まったのは、紀元56年以降からプロブス帝の時代(276-282)にかけての間だと言われる。ぶどうの苗はスペインのナバラ地方から運ばれてきたようだ。ボルドーで生産されたワインは、今日の英国やアイルランド地域に駐屯していたローマ兵のもとへ運ばれていた。

1152年、アキテーヌ女公アリエノールとアンジュー伯ノルマンディー公アンリの婚姻が成立。1154年、アンリがイングランド王国(ヘンリー2世)に即位することで、ボルドーは英国の領土となる。市壁が築かれ、宮殿やゴシック様式のカテドラルが建てられ、ボルドー港はワイン貿易港となった。フランスがアキテーヌ公爵領を再び手にしたのは百年戦争後の1453年だった。

博物館の展示によると、16世紀に入ってからオランダが、18世紀から英国、アイルランド、そして少し遅れてドイツのワイン商人が、ボルドーのシャルトロン地区に拠点を置くようになった。ドイツから来ていたのは、中世期のハンザ同盟で名を馳せたハンブルクやリューベックの商人たちだ。19世紀にはいり、最後にやってきたのはフランス中部やリヨンの商人たち。彼らはユグノー教徒だった。

ボルドーは当時ワイン流通技術の最先端だった。18世紀初頭にオランダ商人が樽の洗浄に亜硫酸塩を使用する方法を紹介し、ワインの貯蔵、熟成が可能となった。同じく18世紀、アイルランド商人がボルドーに最初のワインボトル工場を建設している。

18世紀も終わりになると、豊かになったワイン商たちはメドックの取引先の醸造所を買収し、次々にシャトーを建てはじめた。彼らはいずれも1705年に発足したボルドー商工会議所のメンバーだった。ナポレオン3世が1855年にボルドーワインの格付けを命じた際、彼らは自らのメドックとソーテルヌのシャトーをリストアップ。19世紀になると、その中からシャトー元詰ワインを生産するところが現れた。ワイン商の多くが、買い付けたボルドー産ワインを、スペイン産や南仏産ワインとブレンドして売っていたことへの反発だった。1855年の格付けは、固定したヒエラルキーとして、今日に至るまで影響力を維持している。

1日目はメドック地区の3つのワイナリーを訪ねた。

ポイヤックの南西、サンローラン・メドックのシャトー・ラローズ=トラントドン(Château Larose-Trintadaun/Cru Brrougois)はメドック地区最大級のワイナリー。ワイン造りは1838年から。1986年に保険大手のアリアンツがオーナーとなった。シャトー・ラローズ=トラントドンのほか、シャトー・ラローズ=ペルガンソン(Château Larose-Perganson)、シャトー・アルノー(Château Arnaud)ブランドのワインもリリースしている。

機械収穫され、ぶどうの軸だけが残されたぶどう畑は、鳥の大群が去った後のようだった。ドイツでは機械収穫で高品質のワインは造れないというイメージがまだあるが、200ヘクタール余のぶどう畑は機械収穫中心だ。

巨大なシェ(バリックワイン保存庫)に入ると、香ばしいオーク香に包まれた。終わりが見えないほど長いバリックの列。毎年千単位のバリックの新樽が運び込まれる。静謐でありながら、ダイナミックなワイン造りの現場だ。

続いて、ポイヤックの北、サンテステフのシャトー・フェラン=セギュール(Château Phelan-Ségur)へ。18世紀末にアイルランド系のワイン商ベルナール・オー・フェランが興したワイナリーだ。1985年以後はガルディニエ家の所有。同家はバリのタイユヴァン(Taillvent)、ランスのレ・クレイエー(Les Crayères)のオーナーで、フロリダにはオレンジ農園を持つ。

シャトーのダイニングルームでランチをいただいた。生牡蠣、フォアグラのグリル、鯛のタルタル、鳩の胸肉のロースト、チーズ各種(コンテ、モルビエ、ブリー・ド・モー)そして赤いベリーのスープという献立。窓の外は、広々とした芝生の庭、その向こうにジロンド川が光る。対岸はブレイエ原子力発電所だ。ドイツもフランスもワインの名産地は川沿いにあり、大量の水を必要とする原発と隣り合わせだ。

フェラン=セギュールは、メドックでシャトー内に住居と醸造所がある唯一のワイナリーだという。明るい日射しが差し込む広々としたテイスティングサロンに発酵セラーが隣接する。家族経営のせいか、醸造所のディティールに温かみが感じられる。ここでは、2年前から導入しているという選果機を初めて見た。もとはトマトの選別機の改良版で、特殊カメラでぶどうの色や形状を感知し、未熟果や果実以外のものを排除する。いくつかのシャトーがテスト的に導入しているところだという。

フェラン=セギュールのワインはセカンドのフランク・フェランともに、毎年カベルネソーヴィニヨン、カベルネフラン、メルロの比率がかなり異なる。カベルネフランを全く使用しないヴィンテージもある。ブレンドにはレシピはなく、毎年が新しい試みだという。

この日最後に訪れたのが、ポイヤックとマルゴーのちょうど真ん中に位置する、キュサック・フォール・メドックのシャトー・ミカレ(Château Micalet/Cru Artisan)。フェディユ家が経営するワイナリーだ。2004年から徐々にビオを実践、2009年に完全にビオに移行し、ECOCERTの認証を取得している。畑は10ヘクタール。収穫は全て手摘み。伝統的な小規模ワイナリーだ。秋になってからも夏のような天候が続いたため、他のシャトーではすっかり収穫は終わっていたが、ここではお父さんがちょうど圧搾作業中。フリーランの他に2段階にわけて圧搾を行い、3通りの果汁を得て、それぞれ別に醸造するが、最終的にはブレンドされた1種類のワインを生産する。「70年代以降の化学薬品漬けが最大の過ち。土を汚さないことが一番大事」とドミニクさん。ビオディナミは理解できたことから取り入れていると言う。父の代でメルローの比率が増えたが、彼自身はカベルネソーヴィニヨンの比率を増やし、メドックの伝統を守りたいとのことだ。

2日目は、右岸とアントル・ドウ・メールを訪ねた。

ポムロールのシャトー・ヴィユー=マイエ(Château Vieux-Maillet)も10ヘクタール所有の小さな醸造所だ。隣はミシェル・ロラン氏のワイナリー、シャトー・ル・ボン・パストウール(Châteaux Le Bon Pasteur)、シャトー・ペトリュスも近い。気鋭のワイナリーの内部はユニークだ。ステンレスタンク上部の開閉部の高さのところに、ステンレスの網でフロアが造られ、中央通路部分はガラス張りで、階下で行われている作業が見える。新式のバスケット型のコンパクトな圧搾機も、ステンレスの開口部を取り付けたオーク樽発酵樽(おそらく1000リットル)も、この醸造所で初めて見た。この発酵樽で、温度調整を一切行わない発酵を実験するのだという。

右岸と言えばメルロ。ヴィユー=マイエでは、従来メルロ90%、カベルネフラン10%のブレンドだったが、気候変動に合わせ、カベルネソーヴィニヨンを新たに加え、カベルネフランの割合を増やし、メルロ80%、カベルネフラン15%、カベルネソーヴィニヨン5%の割合にシフトしようとしているところ。温暖化が更に進行するのであれば、カベルネソーヴィニヨンとカベルネフランの割合を更に増やす予定だと言う。すると、メルロはやがて、フランスの北に位置するドイツの適性品種になって行くのだろうか。 ヴィユー=マイエはエレガントで、シルキーでスムースなワインを造りたいと言う。彼らはブレンドを変えて行くことでその目標に到達しようとする。単一品種からワインを産むドイツにはない考え方だ。

サンテミリオンからアントル・ドウ・メールへ。ガロンヌ川とドルドーニュ川が出会い、ジロンド川になる手前の巨大な中州にあるワイン産地だ。サンジェルマン・デュ・ピュシュでルマージュ家が経営するシャトー・レストリーユ(Château Lestrille)を訪ねた。このワイナリーでようやくボルドーの白とロゼ、そしてロゼより濃い色のクラレットを味わうことができた。

レストリーユでは、コンクリートにエポキシ加工したタンクを使用している。ボルドーでは伝統的なタンクと言っても良く、温度が安定するという利点がある。丁度、赤ワインのポンプオーバーの作業中で、タンクの底から抜いた赤ワインが、ホースからプールへと注がれて行く、これを後で果帽の上に注ぐ。この手法はイーストを活発化させるという。

ソーヴィニヨンブランとムスカデルのブレンド、ソーヴィニヨングリとセミヨンのブレンド、メルロー100%のロゼやクラレット...。ボルドーの真ん中にこんな多彩なワインの世界があるなんて!

3日目は南のグラーヴ地区とソーテルヌ地区へ。

早朝のボルドーは霧が立ち込めている。ソーテルヌにとっては恵みの霧だ。

午前中は、ボルドーワインの発祥の地であるグラーヴ地区の中で、最も歴史のある地区ペサック・レオニャンに位置するシャトー・マラルティック=ラグラヴィエール(Château Malartic-Lagravière/Grand Cru Classé)を訪ねた。1996年にオーナーとなったのはベルギー出身のボニー家。海が近いことを感じさせる平坦なメドックと異なり、このあたりには森があり、地形に起伏や奥行きがある。重力を最大限に利用するクレーン設備、オーク発酵槽とステンレスタンクが円を描いて配置されたセラーなど、セラーのデザインに創造性が感じられる。

心をひかれたのは、グラーヴの土壌だ。貝殻石灰岩土壌からはサンゴ、巻貝や平貝の殻が沢山出て来ると言う。粘土質の土壌から顔をだす小石はメドックやサンテミリオンより小さく、色も大きさも形も多様だ。メドックよりずっと古い、こなれた土壌。グラーヴという名前自体が小石という意味だ。

ここでは、畑を耕すことの意味を教えてもらった。ぶどうの樹の周囲を耕すということは、雑草を断ち切る以上に、表土に近い部分に生えるぶどうの根を断ち切ることであり、そうすることで、根がもっと地下深いところへ生えて行くのだという。耕すということは根を壊し、深いところへ生やす技術なのだ。盆栽芸術のような古木が印象的だった。

試飲の順序も面白かった。白ワインは酸味が強いため、まず赤を試飲し、その後に白を試飲した。ドイツでは体験したことのない順序だった。

ワイナリーを後にし、シロン川を見にいった。小川のようで、水の温度はガロンヌ川よりも低い。その温度差で川の水は蒸発し、霧を生むという。

ソーテルヌではシャトー・ギロー(Château Guiraud/Premier Grand Cru Classé)を訪ねた。ちょうど3日前に1ヶ月間にわたる収穫を終えたばかり。全房圧搾で6時間くらいかけて果汁を得る。果汁の約20%が糖分、発酵でアルコール度数が6%vol.になったところで仕上げる。発酵管の代わりにワインボトルが開口部に差し込まれている。発酵管を使うと虫が入り込むので、このような方法にしたという。天井からは無数のハエ取り紙が吊るされている。ギローでは全てが新樽、3年寝かせて出荷するという。バトナージュも何もせず、発酵後はそのまま2年寝かせ、ラッキングするだけだが、ウイヤージュは毎週必要だそう。ビオ認証を取得したばかりとのことだった。

最後に訪れたのが、ソーテルヌとボルドーの中間、ガロンヌ川右岸のランゴワランのシャトー・ビアック(Château Biac)。プリメール・コート・ドウ・ボルドー地区の急な傾斜地に建つシャトーだ。レバノンの戦禍を逃れてボルドーに住み着くことになったアセイリー(Asseily)家がオーナー。数々の出会いがあり、2006年に購入契約を交わし、2008年にファーストヴィンテージをリリースした。ガロンヌ川を遥か下方に見下ろすロケーションは清々しく、ボルドーにも急斜面の畑があることを知った。霧が立ち上るので、貴腐ワインもできやすい。風の通りが良いので、冬は霜を防いでくれる。樹齢45年のぶどうは、アセイリー家によって生命を取り戻し、共にハイレベルのメルロ主体の赤と貴腐ワインを産み出している。

 
ARCHIV

過去のワインエッセイはトップページのアーカイヴからお探しください。