BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
Atomkraft? Nein Danke 福島での事故を受けてドイツ各地で沢山のデモが行われた。
ビブリス原発 (©Alexander Hoernigk/Wikipedia)
シュターデ原発 (©Sorodorin/Wikipedia)
ブルンスビュッテル原発 (©Alois Staudacher/Wikipedia)
クリュンメル原発 (©Quartl/Wikipedia)
ブロクドルフ原発 (©Alois Staudacher/Wikipedia)
023「原子力発電所とハンブルク」
2011年3月11日の東日本大震災の地震と津波、その後立て続けに起こった、福島第一原子力発電所の爆発事故。放射能という目に見えない汚染と、放射性物質というこれまた肉眼で見えない汚染がどの程度にまで広がっているのか、それがどれくらい危険なのか、どれくらい気をつけて暮らせば良いのか、はっきりとしたことがよくわからないまま、1年と9ヶ月が経った。
チェルノブイリの事故が起こったとき
福島の原発事故のニュースが流れて来たとき、まず思い出したのは、1986年4月のチェルノブイリ原発事故が起きた時のことだった。とはいえ、26年前の記憶はかなり風化している。旧西ドイツで暮らしはじめて1年半。1985年の春から大学に通いはじめ、夏にようやくアルバイトが見つかり、ドイツでの生活が軌道に乗りはじめたところだった。
当時は、小さな部屋を借りて暮らしていた。情報源は新聞とロッドアンテナつきの、うつりの悪い白黒テレビから流れて来るニュースだけ。テレビチャンネルは3つくらいしかなかった。あの頃の私のドイツ語力など、たかが知れている。大学の授業の準備が精一杯、シュピーゲル(ニュース雑誌)を読む力はまだなかった。大学で、アルバイト先で、下宿先で、チェルノブイリ原発事故について語りあった記憶がほとんどない。
ハンブルクはチェルノブイリから約1000キロのところにある。それでも、当分は牛乳を飲んだり乳製品を食べたりしないほうがいい、野草や野生の茸、野生のベリー類や木の実、そして野生肉は食べない方がいい、といった情報が飛び交っていたので気をつけていた。学食のメニューにそういったものがあれば避けるようにした。
当時のドイツは東西に分裂しており、旧ソ連ははるか彼方の国。東と西の間には、越えることのできない巨大な壁があり、チェルノブイリは日本よりも遠かった。情報量も現在と比べ格段に少なかったはずだ。それでも当時、食生活にある程度気をつけることは、ドイツにおいてはわりと広く実践されていたのではないだろうか。言葉があまりできなかった私でも、実践していたくらいだから。
よく覚えているのは、日本の両親がとても心配してくれていたこと。日本から見れば、ドイツはチェルノブイリのすぐそばだ。核実験が頻繁に行われていた子供時代、よく「放射能の雨に濡れたらだめよ!」にと言われていたことを思い出し、雨の日は必ず傘をさした。ただ、ハンブルクの人は多少の雨では傘をささない。チェルノブイリ事故直後、それだけは変わらなかったように思う。
原発が見える場所で働いた1年
原発は、実際にそれが見えるところに住んでみないと、その恐さがわからないような気がする。
私が初めて、原発に対し恐怖心を抱いたのは、チェルノブイリの事故後13年が経ってからだった。1999年から2000年にかけて、実習先のワイン醸造所に通うとき、列車でライン川右岸のビブリスという街を通過した。ビブリスは原発の町だ。加圧水型原子炉が2基、1970年代の半ばから稼動していた。実習先はライン川を渡った向こうにあった。
実習中、小高い丘のぶどう畑の彼方には、いつもビブリスの原発が見えていた。直線距離で10キロ。いやでも目にはいってくる。それでも、何ヶ月か経つと、原発の存在を忘れるようになった。慣れてしまうのだ。福島の事故の直後、ビブリスのことを思い出した。もしビブリスが同様の事故を起こしたら、と思うと背筋が凍った。
福島の事故を受け、メルケル首相は「アトム・モラトリウム」という指標をたて、ドイツ国内の原発のストレステストを開始した。そして、2007年から技術的な問題があり、電力を生み出していなかった2基(ともにシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州)を含め、7カ所にある8基が停止。そこにビブリスの2基が含まれていた。そして2011年5月30日、「アトム・モラトリウム」で一時停止させられた原発すべての停止が決まった。福島の事故がなければ、ビブリスは2020年頃まで稼動するはずだった。現在ドイツで稼動している原発は9基。2015年から2022年にかけて、国内の全ての原発が停止する。
ハンブルクと原発
ハンブルクの近郊では、かつて4基の原発が稼動していた。現在は1基だ。
西方30キロにあるシュターデ原発(Stade、ニーダーザクセン州)は、2003年に停止、最後の燃料が取り出されたのが2005年、廃炉工事は2015年に終了すると言われている。
北西80キロのブルンスビュッテル原発(Brunsbüttel)と、南東30キロのクリュンメル原発(Krümmel、ともにシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州)の2カ所は「アトム・モラトリウム」の対象として、2011年に停止。廃炉計画はこれからだ。
北西70キロのブロクドルフ原発(Brokdorf、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州)だけが現在も稼動中で、2021年末に停止することになっている。この原発は、チェルノブイリの事故後の1986年12月に稼動しはじめたものだ。
私は、ハンブルクで暮らしていたほとんどの時間を、稼動中の原発4基に囲まれて過ごしていたことになる。福島の事故が起こるまでは、近隣の原発について考えることはなかった。この目で見たことがない原発は、想像することができなかった。
Atomkraft? Nein Danke
1975年にデンマークで生まれた太陽のマーク(写真上)は、反原発運動のシンボルマークとして広く知られている。この太陽は、代替エネルギーとしての太陽エネルギーを象徴しているという。
ドイツに来たばかりの頃から、街行く人の洋服や鞄につけられたバッジに、あちこちに張られたシールやポスターに、このシンボルマークがあった。そして今、このマークが伝えるメッセージの重要さを、これまで以上に強く感じる。ドイツは脱原発への道を歩み始めた。日本でもどうか脱原発へと舵が切られますように。
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2011年3月11日の東日本大震災の地震と津波、その後立て続けに起こった、福島第一原子力発電所の爆発事故。放射能という目に見えない汚染と、放射性物質というこれまた肉眼で見えない汚染がどの程度にまで広がっているのか、それがどれくらい危険なのか、どれくらい気をつけて暮らせば良いのか、はっきりとしたことがよくわからないまま、1年と9ヶ月が経った。
チェルノブイリの事故が起こったとき
福島の原発事故のニュースが流れて来たとき、まず思い出したのは、1986年4月のチェルノブイリ原発事故が起きた時のことだった。とはいえ、26年前の記憶はかなり風化している。旧西ドイツで暮らしはじめて1年半。1985年の春から大学に通いはじめ、夏にようやくアルバイトが見つかり、ドイツでの生活が軌道に乗りはじめたところだった。
当時は、小さな部屋を借りて暮らしていた。情報源は新聞とロッドアンテナつきの、うつりの悪い白黒テレビから流れて来るニュースだけ。テレビチャンネルは3つくらいしかなかった。あの頃の私のドイツ語力など、たかが知れている。大学の授業の準備が精一杯、シュピーゲル(ニュース雑誌)を読む力はまだなかった。大学で、アルバイト先で、下宿先で、チェルノブイリ原発事故について語りあった記憶がほとんどない。
ハンブルクはチェルノブイリから約1000キロのところにある。それでも、当分は牛乳を飲んだり乳製品を食べたりしないほうがいい、野草や野生の茸、野生のベリー類や木の実、そして野生肉は食べない方がいい、といった情報が飛び交っていたので気をつけていた。学食のメニューにそういったものがあれば避けるようにした。
当時のドイツは東西に分裂しており、旧ソ連ははるか彼方の国。東と西の間には、越えることのできない巨大な壁があり、チェルノブイリは日本よりも遠かった。情報量も現在と比べ格段に少なかったはずだ。それでも当時、食生活にある程度気をつけることは、ドイツにおいてはわりと広く実践されていたのではないだろうか。言葉があまりできなかった私でも、実践していたくらいだから。
よく覚えているのは、日本の両親がとても心配してくれていたこと。日本から見れば、ドイツはチェルノブイリのすぐそばだ。核実験が頻繁に行われていた子供時代、よく「放射能の雨に濡れたらだめよ!」にと言われていたことを思い出し、雨の日は必ず傘をさした。ただ、ハンブルクの人は多少の雨では傘をささない。チェルノブイリ事故直後、それだけは変わらなかったように思う。
原発が見える場所で働いた1年
原発は、実際にそれが見えるところに住んでみないと、その恐さがわからないような気がする。
私が初めて、原発に対し恐怖心を抱いたのは、チェルノブイリの事故後13年が経ってからだった。1999年から2000年にかけて、実習先のワイン醸造所に通うとき、列車でライン川右岸のビブリスという街を通過した。ビブリスは原発の町だ。加圧水型原子炉が2基、1970年代の半ばから稼動していた。実習先はライン川を渡った向こうにあった。
実習中、小高い丘のぶどう畑の彼方には、いつもビブリスの原発が見えていた。直線距離で10キロ。いやでも目にはいってくる。それでも、何ヶ月か経つと、原発の存在を忘れるようになった。慣れてしまうのだ。福島の事故の直後、ビブリスのことを思い出した。もしビブリスが同様の事故を起こしたら、と思うと背筋が凍った。
福島の事故を受け、メルケル首相は「アトム・モラトリウム」という指標をたて、ドイツ国内の原発のストレステストを開始した。そして、2007年から技術的な問題があり、電力を生み出していなかった2基(ともにシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州)を含め、7カ所にある8基が停止。そこにビブリスの2基が含まれていた。そして2011年5月30日、「アトム・モラトリウム」で一時停止させられた原発すべての停止が決まった。福島の事故がなければ、ビブリスは2020年頃まで稼動するはずだった。現在ドイツで稼動している原発は9基。2015年から2022年にかけて、国内の全ての原発が停止する。
ハンブルクと原発
ハンブルクの近郊では、かつて4基の原発が稼動していた。現在は1基だ。
西方30キロにあるシュターデ原発(Stade、ニーダーザクセン州)は、2003年に停止、最後の燃料が取り出されたのが2005年、廃炉工事は2015年に終了すると言われている。
北西80キロのブルンスビュッテル原発(Brunsbüttel)と、南東30キロのクリュンメル原発(Krümmel、ともにシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州)の2カ所は「アトム・モラトリウム」の対象として、2011年に停止。廃炉計画はこれからだ。
北西70キロのブロクドルフ原発(Brokdorf、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州)だけが現在も稼動中で、2021年末に停止することになっている。この原発は、チェルノブイリの事故後の1986年12月に稼動しはじめたものだ。
私は、ハンブルクで暮らしていたほとんどの時間を、稼動中の原発4基に囲まれて過ごしていたことになる。福島の事故が起こるまでは、近隣の原発について考えることはなかった。この目で見たことがない原発は、想像することができなかった。
Atomkraft? Nein Danke
1975年にデンマークで生まれた太陽のマーク(写真上)は、反原発運動のシンボルマークとして広く知られている。この太陽は、代替エネルギーとしての太陽エネルギーを象徴しているという。
ドイツに来たばかりの頃から、街行く人の洋服や鞄につけられたバッジに、あちこちに張られたシールやポスターに、このシンボルマークがあった。そして今、このマークが伝えるメッセージの重要さを、これまで以上に強く感じる。ドイツは脱原発への道を歩み始めた。日本でもどうか脱原発へと舵が切られますように。
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