BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
 
 
024「幻の大聖堂」

80年代の半ば、4ヶ月ほどケルンに住んでいた。大聖堂が見えると、なぜかいつもほっとした。あの巨大な建築物に守られているような気がしたのだろう。歩き疲れた時に休憩したり、雨宿りをしたり、寒さをしのいだりと、あのころはよく大聖堂の中にも入った。大聖堂の前には、たいていいつも年配のドイツ人の男性がいて、広島と長崎の原爆被害の悲惨さを写真で訴えていた。今なら、彼に声をかけるのに、当時の私には、そんな気持ちのゆとりがなかった。

ケルンの大聖堂が居心地良かったのは、あまりにも巨大で、私1人が入ったところで、全く目立たなかったからかもしれない。観光客に紛れて教会堂の中をうろうろでき、聖なる場所というより、パッサージュでも散歩しているような気分になった。しかも中央駅の真ん前という絶好のロケーション。ハンブルクに引っ越してからは、ケルンの大聖堂の代わりとなる場所はなくなった。ハンブルクにはケルンの大聖堂の大らかさを持ち合わせている教会堂はない。大聖堂(Dom)は移動遊園地の名称として残っているだけだ。

しかしハンブルクにも大聖堂はあった。中央駅と市庁舎の中間あたりにドームプラッツという住所が残っている。現在そこは公園となっている。かつてここに巨大な伽藍があった。その名をマリエンドームと言った。

ドームプラッツはハンブルクという街の「核」だった。9世紀に登場する「ハマブルク(Hammaburg)」という街の拠点だったのである。ハマブルクの街を守るため、大司教アンスガーはこの場所に木造の教会堂を建設させた。そして、この教会を拠点として、デンマークやスウェーデン、バルト海沿岸のスラヴ系の国々をキリスト教化しようとしたのである。しかし、バイキングの襲撃によって教会は幾度も破壊され、9世紀の時点で、大司教区はブレーメンに移された。

その後、教会を守る防護壁が建設され、11世紀には石造りの教会ができた。12世紀になると煉瓦で増築され、13世紀にはゴシック様式の大聖堂となった。クリスマスの季節には大聖堂の中で市が開かれていたという。

大聖堂が1807年に壊されたのはつくづく残念だ。プロテスタント化の波、30年戦争の混乱を経て、神聖ローマ帝国の消滅によって世俗化されたドームは、ハンブルク市の所有となったものの、行き場を失い、考古学的、芸術的価値を省みることなく破壊された。その後、この敷地にはハンブルク最古のギムナジウム「ヨハネウム」が建設されたが、1943年に空襲によって破壊された。戦後は何度かに分けて発掘調査が行われ、調査が中断すると駐車場になった。ガラス張りの高層ビルを建てるという案には市民が反対、そして2009年に公園となった。

この公園には、かつての大聖堂を彷彿させる仕掛けがある。壁のような鉄板彫刻は、中世の防護壁の跡をなぞっている。39個の四角いオブジェのようなベンチは夜に光を放つ。このベンチはかつてのマリエンドームを支えていた柱の位置に置かれているので、古の大聖堂の輪郭を想像することもできる。

 
ARCHIV

過去のハンブルクエッセイはトップページのアーカイヴからお探しください。