BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
 
 
025「ハンブルクのリトル・ポルトガル ディトマー・ケール・シュトラーセ」

ハンブルクに「ポルトギーゼンフィアテル(Portugiesenviertel)」つまり「ポルトガル人地区」と呼ばれる地区がある。地下鉄3号線、ランドゥングスブリュッケ駅とハンブルクのシンボルとして聳えるミヒャエル教会の裾野にあたるミッヒェルパークを繋ぐ、 ディトマー・ケール・シュトラーセを中心とする一帯だ。

この通りには、スカンディナビアの4つの国の船員教会と、ポルトガル、スペインなどラテン系のレストランやカフェが共存している。クリスマスシーズンになると、4つの教会は北欧色豊かなクリスマスマーケットで賑わう。正確には、イベリア半島地域とスカンジナビア半島地域が、ハンブルクで出会ってドッキングした地区と言った方がいいかもしれない。

ミヒャエル教会とハンブルク港が至近距離であるため、観光客も多く、街角には活気がある。通りをゆくと、ポルトガル料理にたっぷりと使われる、にんにくのいい香りが漂い、食欲をそそる。さらに進んで行くと、ガラオン(ポルトガル風カフェオレ)を「TO GO」する(ドイツでは近年、テイクアウェイのことをこう言う)人が通り過ぎ、ポルトガル菓子の甘い香りまで漂ってきそうだ。

この地域はもともとポーランド人が多く住んでおり「ポーレンフィアテル(ポーランド人地区)」と呼ばれていたという。ポルトガル系の飲食店が集中しはじめたきっかけは、1960年代にポルトガルからハンブルクに大勢の労働者がやってきたことによる。経済成長を遂げつつあったドイツは、ヨーロッパの辺境の出稼ぎ労働者を多数受け入れた。そのうち、ハンブルクで主に港湾労働者や魚市場の労働者として働いたのがポルトガル人だったのである。

ハンブルクには、ずっと以前にもポルトガル人が多く移住して来た時期がある。16世紀のことで、やってきたのは、正確にはセファルディムと呼ばれるイベリア半島に住んでいたユダヤ人たちだった。1531年にポルトガルに異端審問所ができ、迫害されたセファルディムたちは、北アフリカやヨーロッパ各地に散り散りになり、ハンブルクにもやって来たのである。しかし、彼らの子孫はナチスの台頭により、移住先のハンブルクにおいても迫害されてしまう。

さて、60年代にハンブルクにやってきたポルトガル人労働者たちだが、彼らがみな一様に好条件で働けたわけではなかっただろう。やがて、そのうちの何人かが、生活の糧を得るために、港の近くにポルトガル料理を提供する食堂を開業する。エキゾティックな家庭料理はハンブルクの人たちにも愛されるようになり、やがて一帯は「ポルトギーゼンフィアテル」と呼ばれるようになる。

ポルトガル移民のおかげで、ハンブルクには、数えきれないほど多くのポルトガルカフェが誕生し、パステウ・ジ・ナタ(エッグタルト)は北ドイツの街でも馴染みのおやつになった。「ポルトギーゼンフィアテル」に近い、他地区のポルトガル系の食品店に行けば、いつでもバカリャウ(タラの塩漬けの干物)が手に入る。

自宅からエルベ川に向うなだらかな坂道を下ってこの地区に入り、街の匂いと微かな潮の香りを嗅ぐと、リスボンやポルトが、そしてブラジルが、この街角の向こうに、エルベ川と大西洋を経て繋がっていることをふと思い起こす。

(通りの名称となったディトマー・ケールは16世紀の船乗りで、海賊ハンターとして名を馳せ、ハンブルク市長にもなった人物だそうです。)

 
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