BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
 
 
005「初めての共同事務所 アドミラリテーツ・シュトラーセ」

90年代の半ばに5年間ほど、数人のドイツ人とオフィス・シェアリングしていたことがある。ドイツ語でビュロー・ゲマインシャフト(Büro-
gemeinschaft)と言い、小さな会社やフリーランサーが広いオフィスを共有するというもの。都会ではよくあるシステムで、中には、数年ごとにビュロー・ゲマインシャフトを転々としているイラストレーターの友人もいる。

私の最初で最後(?)のビュロー・ゲマインシャフトのフロアは、港に近いアドミラリテーツ・シュトラーセ(Admiralitätsstrasse)74番地の、古い煉瓦造りの建物の2階(ドイツ式1階)で、1階はイヴェント会場「ヴェストヴェルク(Westwerk)」だった。もともと港の倉庫で、建物の一部は18世紀のものだという。19世紀の終わり頃は製紙工場として使われ、戦後はしばらくドイツ銀行の倉庫だったそうだ。ハンブルクで空襲を免れた数少ない建築のひとつである。

フロアは3部屋に仕切られていて、私を含め、6人のフリーランサーが一緒だった。壊れた業務用エレベーターの空間がバスルームになっており、重いエレベーターの鉄扉がそのままバスルームのドアとして利用されていて、階数の表示灯も残っていた。初めてこのオフィスを見学した日、長年ここで仕事をしている友人が「このバスルーム、エレベーター式でさ、各階で上げ下げして使うんだよ」と言った時、一瞬本当か、と思ってしまった。

私が入ったのは左端の部屋で、一見しただけではわからないが、床全体が中央の部屋に向かって軽く傾斜していた。そのことに気づいたのは、引っ越しを終え、初めてそこで仕事をした日だった。煉瓦むき出しの壁に向かって配置した机に向かい、「さあ、仕事をしよう」と、マッキントッシュSE30の小さなモノクロの画面を見るために、コロのついた椅子をひくのだが、いつもより重い。それどころか、椅子をひくたび、身体がどんどんパソコンから離れてゆく。やがて私は、椅子に座ったまま、反対の壁まで、転がっていってしまった。

友人は、この階だけ床が斜めになっているのは、昔は、保管されていた積み荷を、フロアの中ほどにあった開口部から1階へおろしやすくするためだったのではないかと言うが、バスルームが上下すると言った彼の話だから、本当のところはわからない。しばらくすると、斜面での仕事にも慣れ(ぶどう畑の話みたいですがー。)、疲れて一息つくときは、重力にまかせ、反対の壁まで椅子ごところがっていった。

あの頃は、ずいぶん多くの時間をこの事務所で過ごした。週末の夜になると、階下から、大音響で前衛音楽が流れてきた。たいていは入場無料の、無名ミュージシャンのコンサートで、曲がはじまると大地震のように床が振動した。もちろん仕事は続けられなくなり、階下に降りるしかなかった。隣人たちも、やはり降りて来ていて、仕事にならないね、などといいながら、一緒に音楽を聞いた。そういえばあの頃、ホームレスのルドルフが、この建物の地下室に住みつくようになり、毎日アパートの階段を掃除してくれたっけー。

当時の仲間とは、今も繋がりがあり、時々事務所へ遊びに行く。メンバーは減り、現在、ここを利用しているのは3人だけ。内装はほぼ当時のままなので、とても懐かしい。床の傾斜もそのままで、椅子はやっぱりころがる。ルドルフはその後仕事を見つけ、今はブレーメンの近くに住んでいるそうだ。

通りの角にあるレストラン、マリーネホーフ(Marinehof)は、あの頃と少しも変わっていない。よく新聞や水を買いにいったオンケル・アリ(Onkel Ali)の店はキオスクらしくなった。インターネットで調べものをするようになるとは思いもよらなかったあの頃、階下にあるので、図書館がわりに活用していた、美術書、写真集、建築関連の書籍なら何でも揃う、ザウター+ラックマン(Sautter+Lackmann)も健在だ。
 
ARCHIV