BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
ナポレオン領時代のハンブルク
Aquarell "Prospekt der Kaiserlich Französischen Stadt Hamburg" von Johann Marcus David, 1811
© Johann Marcus David
Aquarell "Prospekt der Kaiserlich Französischen Stadt Hamburg" von Johann Marcus David, 1811
© Johann Marcus David
ヴィルヘルムスブルク地区に架けられた橋
Urheber unbekannt
Urheber unbekannt
ナポレオン時代以前の建築を忠実に再現した、ペーターシュトラーセの裏庭の家(17-18世紀)
同じくペーターシュトラーセの裏庭の家
これがフランツブロートヒェン。誰かが踏みつぶしたようなかたち
016「フランス占領時代のハンブルクとフランツブロートヒェン」
ハンブルクが、かつて、一時的にフランス領だったことを知ったのは、不思議な名前のパンのことを調べていた時のことだった。
ハンブルクには、フランツブロートヒェン(Franzbrötchen)、つまりフランスの小さなパン、と呼ばれる、平たくて固めのシナモンロールのようなパンがある。一見するところ、うっかりクロワッサンを踏み潰してしまったようなものに見える。このパンがなぜ、フランツブロートヒェンと呼ばれるのか、長い間疑問に思っていた。
そうして知ったのが、ナポレオン戦争時(1803-1815)の1806年から1814年にかけて、ハンブルクがフランス領だったこと。この戦争では、ヨーロッパのほとんどの国が、フランス領かフランスの衛生国だった。ナポレオン帝政の絶頂期だったこの間フランスの覇権は、ハンブルクをはじめ、ヴェストファーレン王国(プロイセン領だったエルベ川以西一帯)、オランダ、イタリア王国、スペイン、ナポリ王国、スイス、ライン同盟(最大期で4王国、5大公国、13公国、17侯国、3自由都市が加盟)、ワルシャワ公国、デンマーク王国に及んでいた。
フランス領時代のハンブルクは、英国を孤立化させるため、英国との貿易を禁じられ、ハンブルクにあった英国製商品は全て没収された。英国貿易で成り立っていた商社は、ことごとく潰れ、失業者が溢れた。生き延びた会社も特別税を徴収されたほか、駐屯兵への物資を要求された。
ハンブルクは、中心部が6地区に分けられ、1から6とナンバリングされ、それに、ハム(Hamm)、ベルゲドルフ(Bergedorf)、ヴィルヘルムスブルク(Wilhelmsburg)を加えた全9地区に分類された。市(州)政府は解体、改変され、アルザス地方の政治家たちが送り込まれた。
ハンブルク市民は、アイムスビュッテル、ローターバウム、ハムなどで、ナポレオン軍の射撃訓練用の広場の確保のため、家屋の破壊作業に駆り出された。教会は馬小屋に利用され、ハンブルクの銀行に保管されていた銀は没収された。
さらに、ナポレオンは、パリからマーストリヒト、ヴェンロ(Venlo)、ヴェーゼル(Wesel)、ミュンスターを経由し、ハンブルクまで通じる道路建設に着手。完成すれば、「ナポレオン・ショセー(Napoleon Chaussee)」とか「帝国道路3号線(Route Impériale Nr.3)」と呼ばれるはずだった。しかし、建設されたのは、今日の幹線道路B58号線(ヴェンロからヴェーゼルを経てベックム(Beckum)へ至る道路)のヴェーゼルからシェルムベック(Schermbeck)間だけに留まった。道路建設の際、土地所有者には何らの補償金も支払われなかった。道路沿いには、行進する兵士の日よけにと、成長の早いポプラが植えられた。
「ナポレオン・ショセー」の終着点、ハンブルクのエルベ川の中州にあたるヴィルヘルムスブルク地区は、洪水で水びたしになる恐れがあるため、大きな橋が架けられた。しかしナポレオン軍が1813年にロシアで大敗すると、この橋は撤去され、建設途中の「ナポレオン・ショセー」は撤退ルートとして使われた。ナポレオン自身が、この道路を利用したかどうかは、不明である。
そして1813年のハンブルクでは、ロシア、プロイセンをはじめとする連合軍による包囲が始まっていた。フランス軍によって、真っ先に市外へ追放されたのが、貧しいハンブルク市民だった。その数は6000人から1万人だったと言われている。彼らが仮住まいをみつけたのが、バルムベック(Barmbek)やデンマーク領アルトナ(オッテンゼン)だった。彼らのうちの1000人が冬の間に死亡した。
そして1814年3月、連合軍はパリ入城。4月にナポレオンは退位。そして5月、ハンブルク包囲は終わった。
約9年間にわたるフランス占領時代、あらゆるフランスの文化がハンブルクに伝わった。例えば言語。有名な例が、チュース(tschüs)というハンブルクならではの別れの挨拶だ。これはフランス語のアデュー(adieu)が、アデュース(adschüs)、さらにアチュース(atschüs)と訛り、チュースとなったものだという。
そして食文化。フランスの美味しいパンも、この頃ハンブルクに伝わった(はず)。その名残りがフランツブロートヒェンかもしれない。フランツブロートヒェンの名前の由来には3つの説がある。
その1つ目。ナポレオンのハンブルク占領時代、ハンブルクでフランスのパン、クロワッサンが広まったらしい。そして、ハンブルクのパン職人が、なんとかクロワッサンに似た(全然似てない!)パンをつくろうとして、できたのがフランツブロートヒェンだという説。
2つ目。19世紀当初、フランツブロートヒェンは長い白パン(バゲットに似たパン)の名称だった。その後、世紀末頃から、ハンブルクのパン職人が、その白パンを油をひいたフライパンで焼くようになったものが、現在のフランツブロートヒェンの原型だという説。
そして3つ目は、アルトナのパン職人、ヨハン=ハインリヒ・ティーレマンが19世紀後半に考案したという説。
フランツブロートヒェンは、ハンブルクっ子の朝ご飯やコーヒータイムの定番。ハンブルクの「カルトパン」と言われている。90年代の終わり頃、グリンデルベルクという通りには、フランツブロートヒェンだけを扱う専門のベーカリーがあった。(今もどこかにあるのかな?)ハンブルクっ子は、フランツブロートヒェンの裏側にバターを塗って食べるのが好きだ。
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ハンブルクが、かつて、一時的にフランス領だったことを知ったのは、不思議な名前のパンのことを調べていた時のことだった。
ハンブルクには、フランツブロートヒェン(Franzbrötchen)、つまりフランスの小さなパン、と呼ばれる、平たくて固めのシナモンロールのようなパンがある。一見するところ、うっかりクロワッサンを踏み潰してしまったようなものに見える。このパンがなぜ、フランツブロートヒェンと呼ばれるのか、長い間疑問に思っていた。
そうして知ったのが、ナポレオン戦争時(1803-1815)の1806年から1814年にかけて、ハンブルクがフランス領だったこと。この戦争では、ヨーロッパのほとんどの国が、フランス領かフランスの衛生国だった。ナポレオン帝政の絶頂期だったこの間フランスの覇権は、ハンブルクをはじめ、ヴェストファーレン王国(プロイセン領だったエルベ川以西一帯)、オランダ、イタリア王国、スペイン、ナポリ王国、スイス、ライン同盟(最大期で4王国、5大公国、13公国、17侯国、3自由都市が加盟)、ワルシャワ公国、デンマーク王国に及んでいた。
フランス領時代のハンブルクは、英国を孤立化させるため、英国との貿易を禁じられ、ハンブルクにあった英国製商品は全て没収された。英国貿易で成り立っていた商社は、ことごとく潰れ、失業者が溢れた。生き延びた会社も特別税を徴収されたほか、駐屯兵への物資を要求された。
ハンブルクは、中心部が6地区に分けられ、1から6とナンバリングされ、それに、ハム(Hamm)、ベルゲドルフ(Bergedorf)、ヴィルヘルムスブルク(Wilhelmsburg)を加えた全9地区に分類された。市(州)政府は解体、改変され、アルザス地方の政治家たちが送り込まれた。
ハンブルク市民は、アイムスビュッテル、ローターバウム、ハムなどで、ナポレオン軍の射撃訓練用の広場の確保のため、家屋の破壊作業に駆り出された。教会は馬小屋に利用され、ハンブルクの銀行に保管されていた銀は没収された。
さらに、ナポレオンは、パリからマーストリヒト、ヴェンロ(Venlo)、ヴェーゼル(Wesel)、ミュンスターを経由し、ハンブルクまで通じる道路建設に着手。完成すれば、「ナポレオン・ショセー(Napoleon Chaussee)」とか「帝国道路3号線(Route Impériale Nr.3)」と呼ばれるはずだった。しかし、建設されたのは、今日の幹線道路B58号線(ヴェンロからヴェーゼルを経てベックム(Beckum)へ至る道路)のヴェーゼルからシェルムベック(Schermbeck)間だけに留まった。道路建設の際、土地所有者には何らの補償金も支払われなかった。道路沿いには、行進する兵士の日よけにと、成長の早いポプラが植えられた。
「ナポレオン・ショセー」の終着点、ハンブルクのエルベ川の中州にあたるヴィルヘルムスブルク地区は、洪水で水びたしになる恐れがあるため、大きな橋が架けられた。しかしナポレオン軍が1813年にロシアで大敗すると、この橋は撤去され、建設途中の「ナポレオン・ショセー」は撤退ルートとして使われた。ナポレオン自身が、この道路を利用したかどうかは、不明である。
そして1813年のハンブルクでは、ロシア、プロイセンをはじめとする連合軍による包囲が始まっていた。フランス軍によって、真っ先に市外へ追放されたのが、貧しいハンブルク市民だった。その数は6000人から1万人だったと言われている。彼らが仮住まいをみつけたのが、バルムベック(Barmbek)やデンマーク領アルトナ(オッテンゼン)だった。彼らのうちの1000人が冬の間に死亡した。
そして1814年3月、連合軍はパリ入城。4月にナポレオンは退位。そして5月、ハンブルク包囲は終わった。
約9年間にわたるフランス占領時代、あらゆるフランスの文化がハンブルクに伝わった。例えば言語。有名な例が、チュース(tschüs)というハンブルクならではの別れの挨拶だ。これはフランス語のアデュー(adieu)が、アデュース(adschüs)、さらにアチュース(atschüs)と訛り、チュースとなったものだという。
そして食文化。フランスの美味しいパンも、この頃ハンブルクに伝わった(はず)。その名残りがフランツブロートヒェンかもしれない。フランツブロートヒェンの名前の由来には3つの説がある。
その1つ目。ナポレオンのハンブルク占領時代、ハンブルクでフランスのパン、クロワッサンが広まったらしい。そして、ハンブルクのパン職人が、なんとかクロワッサンに似た(全然似てない!)パンをつくろうとして、できたのがフランツブロートヒェンだという説。
2つ目。19世紀当初、フランツブロートヒェンは長い白パン(バゲットに似たパン)の名称だった。その後、世紀末頃から、ハンブルクのパン職人が、その白パンを油をひいたフライパンで焼くようになったものが、現在のフランツブロートヒェンの原型だという説。
そして3つ目は、アルトナのパン職人、ヨハン=ハインリヒ・ティーレマンが19世紀後半に考案したという説。
フランツブロートヒェンは、ハンブルクっ子の朝ご飯やコーヒータイムの定番。ハンブルクの「カルトパン」と言われている。90年代の終わり頃、グリンデルベルクという通りには、フランツブロートヒェンだけを扱う専門のベーカリーがあった。(今もどこかにあるのかな?)ハンブルクっ子は、フランツブロートヒェンの裏側にバターを塗って食べるのが好きだ。