BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
 
 
019「市役所前にて ラートハウスマルクト」

1980年の夏に初めて旅してからというもの、ドイツでは、見知らぬ街の駅に着いたら、いつも市役所を目指して歩くことにしている。まず、市役所前の広場に佇んで、それからゆっくりと、散策のルートを考える。

蒸気機関車が発明されてから造られた鉄道駅は、たいてい旧市壁の外側にあるが、市役所は旧市街の中核にある。駅から迷わず市役所をめざせば、その街の懐に入っていける。

ハンブルクの旧市役所は、現在の市役所に近い、ボルゼンブリュッケ(Börsenbrücke)の10番地にあり、以前は常設のレストランだったが、現在は「旧市役所へ(Zum alten Rathaus)」という名前の催し物会場となっている。この旧市役所の建物は、1842年の大火事で被害を受けたため、現在の市役所が新たに建設されることになったという。完成したのは1897年。たった110年ほど前のことだ。現在の市役所は、おそらく6つ目の建物ではないかと言われている。市役所の真向かいには日本国総領事館がある。

かつては、この市役所前に、路面電車が乗り入れていた。ハンブルク市の路面電車は、1894年に開通したのだが、市は1958年に廃止を決めた。最後の路面電車は1978年まで走り続けた。ハンブルクの街では、今もなお、石畳の通りのところどころに、路面電車の線路跡を見つけることができる。

私は、ハンブルクの市役所の騒がしい正面広場よりも、人気のない中庭の方が好きだ。中庭へは、市役所の正面玄関に入り、ロビーを経て出て行くこともできるし、中庭に通じる両脇のアーチをくぐって入ることもできる。そこには、ヒュギエイアの泉があり、水の音が耳に心地よい。都会の真ん中なのに、とても静かだ。この空間に佇むと、イタリアにいるような錯覚に陥る。夏には、市庁舎地下のレストランが中庭にテーブルを出すので、屋外カフェとして利用できる。

ヒュギエイアはギリシャ神話に登場する、健康と清潔を司る女神だ。彼女は常に杯のような器を手に持ち、蛇を従えている。街角で見かける薬局(Apotheke)のシンボルマークである赤いAの文字の中にも、彼女の器とからみつく蛇が描かれている。蛇は、邪悪を意味する場合もあるが、生命力や治癒力、再生のシンボルでもある。

この市役所の中庭のヒュギエイアは、蛇を従えるのではなく、ドラゴンを手なずけている。このドラゴンは、市庁舎建設中の1892年にハンブルクを襲ったコレラ禍の象徴であり、ヒュギエイアの泉は、コレラ禍による8.605人の死者のことを忘れないように、と造られたものだという。

災害や疫病というものは、どの時代にも人間に襲いかかり、そのたびごとに、人間はそれらの災いを乗り越えてきた。ハンブルクの中心の、静寂が支配するヒュギエイアの泉の前で、東日本を襲った災害のこと、これから、日本人としてどう生きるべきかということを考えて続けている。
 
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