TRANS・BRASIL ブラジル往復
 
 
001「聖市・サンパウロの自由街区」

聖市、聖なるメトロポール。サンパウロの和名はなんと美しいのだろう。
6年前までは、まさか自分がこんなに頻繁に南米に通うようになるとは予想だにしなかった。南米はそれほど遠く、サンパウロやブエノス・アイレスといった有名な都市名を聞いても、具体的なイメージが湧かなかった。

そして今、南米の都市の印象を、誰かに伝えたいと思っても、それがいまだにできなくて、もどかしい気持ちになる。南米はとてつもないサイズのモンスターだから。

サンパウロは人口1千万以上を擁する大都市だが、これといった街のシンボルを思いつかない。あえて挙げるなら、屋上にテレビ塔やヘリポートを備えた、無限に林立する高層建築群だろうか。でも、サンパウロに到着した翌日、私が何をおいても真っ先に行く場所なら言える。「リベルダージ」だ。
リベルダージ、ポルトガル語で自由。自由という名の街区。そこに、世界最大の日本人街がある。

地下鉄でリベルダージ駅まで行き、地上に出ると、アジア人の顔がいっぱい目に入ってくる。駅前のベンチでは、日系のおじいさんたちが、ひなたぼっこをしている。その一角を切り取れば、そこはもう紛れもない日本だ。向かいにある銀行も、その他の店舗も、日本風のファサードで、道路には、すずらんの花を模したちょうちんのような街灯がずらりとならび、大阪橋のそばには大鳥居がある。まるでこの街区全体が大きな神社の境内でもあるかのようだ。

日本風のベーカリー、見事な品揃えの日系スーパーマーケットの数々、日本の田舎にありそうな理容院、ふとん屋、昭和30年代頃のような店先の文房具屋や鞄屋、地方都市のちょっと寂れた市場にありそうな魚屋、日系の新聞、雑誌がひしめくスタンド、寿司屋にたこ焼き屋にラーメン屋。あるスーパーに入ってみる。店先には葉のついたぴかぴかの生姜や、皮のついたままの新鮮なたけのこ、枝付きの枝豆などがディスプレイされている。奥に入ると商品の多様さに圧倒される。豆腐ひとつをとっても、本土風から沖縄風までいろいろ。サンパウロやその近郊で生産されている醤油や味噌、納豆などは、本国とは異質な名称やパッケージで、強烈な存在感を放っている。

この街角を歩きながら、2年前に訪ねた、リベルダージとは表と裏の関係にあるような、横浜や大泉、浜松などのブラジル人街区のことを思い出していた。誰もが、よりよい生活と、ささやかな自由と幸福を求めて、ブラジルへ、そして日本へと移住し、このような街区ができあがった。サンパウロの移民の集う街角に「自由」という名はふさわしいと思う。

しかし、リベルダージという名のいわれは、そんな思いとはまったく違うところにあった。この街区は奴隷制の時代、処刑場だったという。自由を求めて逃亡したものの、捕まってここで処刑された奴隷たちもいたことだろう。処刑された奴隷や違法者たちにとって、自由とは、死によってしか得られない境地だった。

地下鉄リベルダージ駅があるリベルダージ広場にサンタ・クルーズ教会がある。この教会には巨大な煙突がついていて、いつも煙がもうもうと立ち上っている。煙突の間は、巨大な暖炉のように煙がたちこめ、壁も天井もすすで真っ黒。数えきれないほどのキャンドルが絶えず灯っている。この教会は別名「絞首刑にされた人たちの魂の教会」と言われる。21世紀の今日、ここで灯される火は、かつてここで処刑された奴隷たちの魂をも弔っている。

リベルダージの名をめぐる逸話もある。19世紀初頭、フランシスコ=ジョゼ・デ・シャガス(通称シャギーニョ)というブラジルの兵士が、賃上げとポルトガル兵とブラジル兵の平等を訴え、反乱を起こしたがために、絞首刑を言い渡された。しかし、処刑の際に首吊りの紐が奇跡的に3度も切れ、庶民は「リベルダージ!」と叫んでこの英雄の解放を乞うたそうだ。しかし、彼は、棒で殴られて死に至り、奴隷墓地に埋葬された。その奴隷墓地は、フア・ドス・エストゥダンチス(Rua dos Estudantes)とプラッサ・アウメイダ・ジュニオール(Praça Almeida Júnior)の間にあったという。現在、墓地跡にはビルが密集しているが、フア・ドス・アフリトス(Rua dos Aflitos)のつきあたりに、奴隷墓地のチャペルだった「苦しめられた人々のチャペル(Capela dos Aflitos)」が残っている。

リベルダージ、そこは、自由の大切さを考えさせられる場所でもある。

 

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