TRANS・BRASIL ブラジル往復
カーニバル期間中の、人通りの絶えたパウリスタ大通り
現在の神戸トアロード。ここにパウリスタがあった。© Yasuyuki Tachibana(撮影/立花靖之)
長谷川泰三さんの著書「日本で最初の喫茶店『ブラジル移民の父』がはじめた・カフェーパウリスタ物語」とパウリスタのコーヒー缶
004「パウリスタでブラジルコーヒーを」
「パウリスタ」という言葉が「サンパウロっ子」のことを意味しているのだと意識したのは、ほんとうについ最近のことだ。私にとっての「パウリスタ」は、長い間、神戸のトアロードにあった喫茶店・洋食レストラン「パウリスタ」のことだった。
あれは昭和40年代のはじめごろだろうか、父母が年に何回か「パウリスタ」に連れて行ってくれた。たいてい、元町や三宮に買物に出かけた帰りに立ち寄った。あの頃は、元町や三宮へ行くことは、特別な「お出かけ」で、「パウリスタ」も特別な場所だった。
「パウリスタ」で食べたものは、チキンライスの上に日の丸の旗が立てられたお子様ランチと、当時、自宅にはジューサーなどなかったから、材料が揃っても絶対に作れなかったミックスジュースのことしか覚えていない。店内の記憶はあやふやだ。
神戸の「パウリスタ」は、とうの昔になくなっているが、東京にはまだ「パウリスタ」という名の喫茶店が残っていることを知って、昨年の暮れに訪れた。2003年に初めてサンパウロを訪ねて以来、「パウリスタ」をはじめ、「ぶらじる」とか「サントス」といった名前の日本の喫茶店のことが気になっていたのである。
銀座の「パウリスタ」は、商業ビルの1階にあり、少し薄暗い店内と、低めの落ち着いた色調のテーブルと座席は、30年以上前の日本の喫茶店の風景そのものだった。神戸の店は、もっとテーブルが高く、レストラン風の造りだったかもしれないー。「パウリスタ」でコーヒーを飲んでいると、少しだけ記憶が蘇ってきた。記念にパウリスタ・オールドという赤と黒の缶に入ったコーヒーを買い求め、レジの近くに置いてあったパンフレットをもらって帰った。
その素敵なコーヒー缶には、株式会社カフェーパウリスタが創業1910年(明治43年)であると印刷されてあった。笠戸丸が初めての日本人移民をサントスに運んだ2年後の創業。「あっ」と思って、パンフレットに目を通すと、予想もしなかったことが書かれてあり、本当に驚いた。
1908年、笠戸丸に一緒に乗り込んでいた移民たちの団長、水野龍(りょう)氏は、1904年に皇国殖民合資会社を設立した人物。1906年にブラジルへ視察に行き、ブラジルの珈琲農場が労働力を必要とし、日本が食糧難寸前だったという社会状況から、移民事業を積極的に展開し、ブラジルへの移民船出帆を実現した人だ。
しかし、移民事業の収支は大幅な赤字で、水野氏の会社は倒産、その後、高知の豪商の支援を受けて細々と事業を続けていたところ、水野氏の窮状を知ったサンパウロ州政府が、珈琲豆の無償供与を申し出、日本におけるブラジルコーヒーの普及事業を委託したのである。水野氏は早速、カフェーパウリスタ社を設立、日本各地に喫茶店「パウリスタ」を開き、珈琲文化を広めた。ブラジルからの無償供与は12年間続き、送られた珈琲は計846トンに及んだという。
水野氏のカフェーパウリスタ社は神戸にも店を持っていた。私が家族と訪れた「パウリスタ」は、かつて水野氏の店があった場所で営業していた後継者の店で、オリジナルの店舗ではない。その店もだいぶ前になくなってしまったが、同じ場所にあるビルは「パウリスタビル」という名前だ。
ところで、「銀ブラ」という言葉があるが、これは銀座をぶらぶら歩くことのほかに、「銀座(のパウリスタ)にブラジルコーヒーを飲みにいくこと」(*注)という意味としても使われていたという。すると、私が子供のときに聞いた「三ブラ」という言葉は「三宮にブラジルコーヒーを飲みにいくこと」も意味していたのだろうか。
カフェーパウリスタ社は、1942年に社名を日東珈琲に改称。同社は1969年、新たに株式会社カフェーパウリスタを設立。その翌年、創業の地、銀座にカフェーパウリスタ銀座店が復活した。日東珈琲前取締役社長の長谷川泰三氏の著書「日本で最初の喫茶店『ブラジル移民の父』がはじめた・カフェーパウリスタ物語」(文園社)には、「パウリスタ」の歴史と、当時の「パウリスタ」の様子が活き活きと描かれている。
本の中で印象的だったのが、自身も65歳でブラジルへ移住した晩年の水野氏が、日々読経を行い、600人におよぶブラジル移民物故者の名簿を欠かさず読んでいたというエピソードだ。
(注/愛読している新潮社のサイト「Webで考える人」の連載、飯間浩明さんの「分け入っても分け入っても日本語(48)銀ブラ」によると、「銀座にブラジルコーヒーを飲みにいくこと」という説は、根拠がないこじつけだとのことです。この説は21世紀以降、インターネットで拡散されたようです。/2018年12月30日追記)
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「パウリスタ」という言葉が「サンパウロっ子」のことを意味しているのだと意識したのは、ほんとうについ最近のことだ。私にとっての「パウリスタ」は、長い間、神戸のトアロードにあった喫茶店・洋食レストラン「パウリスタ」のことだった。
あれは昭和40年代のはじめごろだろうか、父母が年に何回か「パウリスタ」に連れて行ってくれた。たいてい、元町や三宮に買物に出かけた帰りに立ち寄った。あの頃は、元町や三宮へ行くことは、特別な「お出かけ」で、「パウリスタ」も特別な場所だった。
「パウリスタ」で食べたものは、チキンライスの上に日の丸の旗が立てられたお子様ランチと、当時、自宅にはジューサーなどなかったから、材料が揃っても絶対に作れなかったミックスジュースのことしか覚えていない。店内の記憶はあやふやだ。
神戸の「パウリスタ」は、とうの昔になくなっているが、東京にはまだ「パウリスタ」という名の喫茶店が残っていることを知って、昨年の暮れに訪れた。2003年に初めてサンパウロを訪ねて以来、「パウリスタ」をはじめ、「ぶらじる」とか「サントス」といった名前の日本の喫茶店のことが気になっていたのである。
銀座の「パウリスタ」は、商業ビルの1階にあり、少し薄暗い店内と、低めの落ち着いた色調のテーブルと座席は、30年以上前の日本の喫茶店の風景そのものだった。神戸の店は、もっとテーブルが高く、レストラン風の造りだったかもしれないー。「パウリスタ」でコーヒーを飲んでいると、少しだけ記憶が蘇ってきた。記念にパウリスタ・オールドという赤と黒の缶に入ったコーヒーを買い求め、レジの近くに置いてあったパンフレットをもらって帰った。
その素敵なコーヒー缶には、株式会社カフェーパウリスタが創業1910年(明治43年)であると印刷されてあった。笠戸丸が初めての日本人移民をサントスに運んだ2年後の創業。「あっ」と思って、パンフレットに目を通すと、予想もしなかったことが書かれてあり、本当に驚いた。
1908年、笠戸丸に一緒に乗り込んでいた移民たちの団長、水野龍(りょう)氏は、1904年に皇国殖民合資会社を設立した人物。1906年にブラジルへ視察に行き、ブラジルの珈琲農場が労働力を必要とし、日本が食糧難寸前だったという社会状況から、移民事業を積極的に展開し、ブラジルへの移民船出帆を実現した人だ。
しかし、移民事業の収支は大幅な赤字で、水野氏の会社は倒産、その後、高知の豪商の支援を受けて細々と事業を続けていたところ、水野氏の窮状を知ったサンパウロ州政府が、珈琲豆の無償供与を申し出、日本におけるブラジルコーヒーの普及事業を委託したのである。水野氏は早速、カフェーパウリスタ社を設立、日本各地に喫茶店「パウリスタ」を開き、珈琲文化を広めた。ブラジルからの無償供与は12年間続き、送られた珈琲は計846トンに及んだという。
水野氏のカフェーパウリスタ社は神戸にも店を持っていた。私が家族と訪れた「パウリスタ」は、かつて水野氏の店があった場所で営業していた後継者の店で、オリジナルの店舗ではない。その店もだいぶ前になくなってしまったが、同じ場所にあるビルは「パウリスタビル」という名前だ。
ところで、「銀ブラ」という言葉があるが、これは銀座をぶらぶら歩くことのほかに、「銀座(のパウリスタ)にブラジルコーヒーを飲みにいくこと」(*注)という意味としても使われていたという。すると、私が子供のときに聞いた「三ブラ」という言葉は「三宮にブラジルコーヒーを飲みにいくこと」も意味していたのだろうか。
カフェーパウリスタ社は、1942年に社名を日東珈琲に改称。同社は1969年、新たに株式会社カフェーパウリスタを設立。その翌年、創業の地、銀座にカフェーパウリスタ銀座店が復活した。日東珈琲前取締役社長の長谷川泰三氏の著書「日本で最初の喫茶店『ブラジル移民の父』がはじめた・カフェーパウリスタ物語」(文園社)には、「パウリスタ」の歴史と、当時の「パウリスタ」の様子が活き活きと描かれている。
本の中で印象的だったのが、自身も65歳でブラジルへ移住した晩年の水野氏が、日々読経を行い、600人におよぶブラジル移民物故者の名簿を欠かさず読んでいたというエピソードだ。
(注/愛読している新潮社のサイト「Webで考える人」の連載、飯間浩明さんの「分け入っても分け入っても日本語(48)銀ブラ」によると、「銀座にブラジルコーヒーを飲みにいくこと」という説は、根拠がないこじつけだとのことです。この説は21世紀以降、インターネットで拡散されたようです。/2018年12月30日追記)
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