TRANS・BRASIL ブラジル往復
 
 
008「コチアへ買い出しに」

カラピクイバに滞在していた時、和食の食材が欲しくなると、よくコチアまで買い出しに出かけた。コチア市は人口18万人の小さな町。カラピクイバからだと、サンパウロの中心にある日本人街、リベルダージへ行くよりも、コチアの方がずっと近い。

初めてコチアを訪れたのは2004年の4月。まだオサスコに住んでいた頃のことだ。行きたかった理由は、コチアに「プラサ・ジャポネーザ(Praça Japonesa/日本広場)」と呼ばれる場所があると聞いていたから。丘をなす市街地に近づくころ、左手に日本の寺のような建築物が見えた。丘のふもとのバスターミナルから、来た道を戻り、まず「寺」に向かった。

寺のように見えたのは、茶室と屋根のついた舞台。いずれも本格的な日本建築で、入母屋屋根が美しい。特に舞台のほうの屋根は急角度で格調がある。さまざまな石の配置も、池の形や位置も、日本人の私が、ここは本当に日本ではないかと思えるほど自然。平和で静寂な居心地のよい庭園に佇んでいると、憎みつつも愛しているブラジルのカオスを一瞬忘れることができる。

その庭園の中に、こぶりのオベリスクがあり、「コチア産業組合発祥之地」とあった。また、「コチア産業組合下元健吉氏に捧ぐ」と書かれた氏の胸像もあった。

高知県出身の下元健吉氏(1897-1957)は、南米最大の農協だったコチア産業組合(Cooperativa Agricola de Cotia)の創立者。1914年にブラジルへ移住、コチアに入植し、じゃがいもを栽培していた。その後、地元高知県の産業組合活動をヒントにコチア産業組合を立ち上げ、戦前、戦中、戦後を通じて日本人、日系人の農家の権利と利益の保護、そして発展に貢献した。

終戦後は、苦境に立たされた日本の農家の青年たちを受け入れ、2000人以上の「コチア青年」を育てた。「コチア青年」たちは、コチア産業組合員である日系農家で研修し、独立のための支援を受けることができた。事業も、野菜全般、果樹、花卉、養鶏と広がり、コチアを越え、サンパウロ州全体、さらにはブラジル各地にも進出したが、数年前に事業不振に陥り、廃業した。

ニッケイ新聞インターネット版に掲載されている、ジャーナリストの外山 脩さんの記事などを読むと、コチア産業組合の壮大な野望と試みについて伺い知ることができる。現在、ブラジルで農業、養鶏業などを営む日系農家、日系企業の多くは、かつてこの協同組合と関わりがあったことだろう。

コチアは高台にある市街地もいいところだが、いつも直行するのは、バスターミナルに近い市営市場だ。老朽化している小さな市場だが、スーパーマーケットスタイルの八百屋や小さな八百屋、花屋、魚屋などがあり、買物はすべてここで足りてしまう。豆腐やおあげ、味噌、海苔、納豆、たくあんなどは、市場内のクルミン(Curumim/インディオの言葉で男の子、の意)というスパイスとハーブのお店で揃う。それにしても、パック入りの豆腐の製造年月日が、いつも私が購入する日の日付であることに驚く。毎朝、できたてがこの店に届けられているのだ。

買物が一段落すると、市場内の魚屋の店先で、ブラジル人のおじさんが、みごとな手つきで刺身をカットしてくれるのを待ちながら、魚のてんぷらなどをつまんでひと休み。思えば、サンパウロでは、港町ハンブルクでよりも、日本でよりも、頻繁に刺身を食べていた。

 

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